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松平頼雄 (西条藩嫡子) : ミニ英和和英辞書
松平頼雄 (西条藩嫡子)[まつだいら よりかつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 
西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
: [はん]
  1. (n,n-suf) fiefdom 2. domain (precursor to current prefectures) 
嫡子 : [ちゃくし]
 【名詞】 1. legitimate child 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

松平頼雄 (西条藩嫡子) : ウィキペディア日本語版
松平頼雄 (西条藩嫡子)[まつだいら よりかつ]

松平 頼雄(まつだいら よりかつ)は、紀州藩支藩の伊予西条藩の世子。実父により無実の罪によって廃嫡され、非業の最期を遂げたとされる。
== 生涯 ==
寛文8年(1668年)3月22日、西条藩主・松平頼純の四男として江戸で生まれる。母は正室本多忠義の娘清性院(1673年死亡)。孝行心が深く、方正で、非難の余地がない人物だったことで、史料は全て一致する。
頼雄の最初の不幸は6歳の時、頼純の正室であり、頼雄の生母であった本多氏(法号は清性院)が死去したことである。その後、頼純は側室であった太田氏(観樹院)を寵愛し、その間に出来た頼致を可愛がるようになる。
元禄11年(1698年)19月、同母兄・頼路の死によって元禄12年(1699年)4月7日に頼雄は32歳で嫡子となる。以後、同年12月18日に従四位下侍従となり、翌元禄13年1月13日に山城守と改めた。元禄13年(1700年)7月28日に月次登城を果たした。
しかし、元禄14年6月の嘉定初登城の直後から藩主の父・頼純の態度が変わり、頼雄を避けて疎んじて世子の立場から退けて重臣の強い反対にかかわらず廃嫡しようとした。家老の奥村正尚渥美勝之〔妻は頼純長女の於留天姫。〕はたびたび頼純に翻意を諫言したが聞き入れられず、宝永3年(1706年)に頼純は頼雄の「行跡無宜」という漠然とした理由を挙げ老中に届けて、彼を義絶し、渋谷にあった西条藩下屋敷の一間に押し込んだ。すぐ後、「かねての御願いの通り」に愛妾の子・頼致を世嗣にした。更に宝永6年(1709年)には頼純が渥美を手討ちにし、渥美の妻子、その他の渥美の親族、関係者を大勢処罰した。理由は、渥美が頼雄の処罰の件を強諌したことにあった。押し込め処分が解けないまま、正徳元年(1711年)に頼純は死去し、頼致が30歳で西条藩主となった。
宝永2年(1705年)に本家の紀州藩主となっていた従弟・徳川吉宗が、西条藩下屋敷での座敷牢のような生活を憐れみ、頼雄を別邸に移したが、江戸では何かと気が詰まるだろう〔西条藩主は江戸定府であった。〕と正徳3年(1713年)に紀州へ移した。
紀州和歌山では吉宗が何かと心配りを行い、書籍も望みのままに与え、また京都から婦人を迎えたが、頼雄はこれを断り、「父の勘気を蒙った不肖の息子」だとしてもっぱら謹慎した。「父の不興を買うたる者は日の光を受けるは恐れ多し」と庭に出るにも笠を付けるほどであったという。
このような謹慎生活を過ごすにあたり、吉宗は和歌山は藩士も多く、心落ち着き蟄居するには田舎が良いだろうと、御附家老安藤氏田辺藩下秋津(現和歌山県田辺市)の高台に30間四方の邸宅を建て、その年の12月に頼雄をそこに移し住まわせた〔1714年8月という説は間違いである。〕。頼雄はここで官職を投げ捨て松平左門と名を改めた。
ところが、享保元年(1716年)に吉宗は将軍となって紀州を去り、西条藩主であった異母弟・頼致が徳川宗直を名を改めて紀州藩主となり、その弟であった頼渡が西条藩を継いだため、頼雄の嗣子としての道は完全に閉ざされた。
享保3年(1718年)5月、頼雄が下秋津屋敷の周辺を散歩していたところ、屋敷に米を運び入れるものがあり、由来を聞くと藩主となった弟の宗直から送られた米であった。これを聞いた頼雄は以降一切の食事を断って29日に51歳で没した。頼雄の死には謎も多く異説があり、頼雄は吉宗に訴えるために江戸に向かう途中、日高郡小松原村の九品寺に立ち寄ったところを刺客に殺されたという説であり、九品寺には大名塚という五輪塔があり頼雄の墓であると伝えられている。頼雄は和歌山の感応寺に葬られており、安永5年(1776年)には紀州藩9代藩主徳川治貞が参墓しており、寛政5年(1793年)3月からは10代藩主治宝が名代による墓参を始め、文化3年(1806年)5月には和歌山城内に邦安社を建立して頼雄の祭典を執行し、天保6年(1835年)からは紀州藩においては頼雄を西条松平家の嫡子として扱うこととなった。〔小山、2011年〕
頼雄の死因は現在でもはっきりとしない。一説に、将来の紀州藩のお家騒動を懸念した〔長子相続の原理から言えば本来、頼雄が正統な継承者である。〕宗直が御坊市の九品寺におびき出して暗殺したと言われる。あるいは、紀州藩主の代替わりを数年後に知った頼雄が、「弟殿の御代となっては養ひ受くべきは思いもよらず」と宗直が差し入れを送っていたことを知り反発し、病気を訴え、絶食の末に餓死したとも言われる(九品寺には山城守と言い伝えられている無銘の大名塚があることから、暗殺説が有力である)。葬式は田辺の本正寺で、三つの藩の目付の前で行われた。
戒名は「本地院殿守玄日得大居士」。墓所は和歌山の感應寺、位牌堂は田辺の本正寺、供養塚は御坊の九品寺。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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